天才と凡才と学習

2021/12/31

■正しく学習する事は、人を謙虚にし理想の世界を創る。

 想像してみて下さい。凡才が凡才を見たら、どう思うと思いますか。凡才と思う。天才と思う。どっちなんでしょうか。では、凡才が天才を見たらどう思うでしょうか。天才が天才を見たら。天才が凡才を見たら。色々な意見が出て来そうですね。意見の違いは、判断する基準に関係するのではないでしょうか。
 学習を、何々高校や何々大学に入学する為の手段と考えて生きて来た人は、学歴や役職、そして肩書きで判断しそうですね。より難しい資格を持っている人が天才という訳です。では、学歴や役職そして肩書きが不明の場合はどうするのでしょうか。学習を手段としてきた人達のテストへの対応方法は、知識の蓄積と検索です。従って、知識があるかどうがその基準となるでしょう。その情報自体が何の役にも立たない情報だとしてもです。これに対して、正しく学習した人はどうでしょうか。正しく学習した人は、より真実に近づこうとします。学んだ事を生きる事に利用しようとします。学習した事を新しい何かを生み出す為に役立てようとします。従って、正しく学習してきた人は、自身が思いもよらない考えや物を生み出した、若しくは生み出せる人かが基準となります。この考えの下では、知識は所詮知識でしかなく、知識だけでは何も生み出さない事、知識なら調べれば手に入れる事が出来るので凄くも何でもない事を理解する事になります。また、正しく学習した人は、現在の人間の叡智が如何に不完全で不確かで、そして理解出来ている事が如何に少ないかも理解する事になります。
 正しく学習した人は自身が天才であろうと凡才であろうと、天才を見れば天才と思い、凡才をを見ても天才と思います。何故なら、見ただけでは、少し話しただけでは、自身が思いもよらない物を生み出した人かは分からないからです。言わんや、その人がこれから生み出せるかどうかなんて分かりようがないからです。従って、天才は誰を見ても天才かもしれないと思っているのですから、天才はどんな人にも謙虚に振る舞う事になります。
 この考えからもう一つ言える事ができます。誰に対しても謙虚に振る舞えない人は、天才ではないと言う事です。正しく学習していないのです。「🟠心(Philosophy)」でお話しした様に、教育の目的が達成されていない、ゴナン(「子供と大人と大人と子供」を参照)なのです。その人が、大企業の社長でもです。商売は子供でも出来るのですから。日本で一番難しい大学を卒業した人でもです。無意味な動機で無意味な事を記憶出来る強い意志があれば、入学することは可能なのですから。
 日本に「ゴナン」をこれ以上増やさないで下さい。日本が日本でなくなります。
 
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